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−−パート10:帰国編−−



 さて、一日遡って9月19日(金)。あっと云う間の一ヶ月も今日で終わり。いよいよマッセー大学に来る最後の日がやってきた。後は20日、最後の休日を家族で楽しみ、21日にパーマストンノースを離れるのだ。

 その日は朝から修了式だった。ウチらのためにと、わざわざ余所クラスの留学生も授業潰して祝福に来てくれると云うのである。ちなみに同時期に留学していた余所の大学の留学グループの方はソレもなく、また期間も短かったので何時の間にか居なくなっていた…。

 ソレで留学生センターでいちばん大きな教室に集合。この教室、以前警察犬とハンドラーがやってきて芸を見せてくれたことがあったのだが、その時にも使われた場所である。しかしこの警察犬、なんかもうさっぱり云うことを聞かず、ハンドラーがあれやこれや説明してるその脇で、はああオレを止めるモノはもうないぜと騒いでいてみなに失笑を買っていた思い出の場所である。いくら平和な国といえ、この調子でニュージーランド警察は大丈夫なのか。
 で、終了式自体はまああっさりめで、修了証書を受け取ったり写真撮ったりしているうちにつつがなく終わり。午前クラスの留学生連中ともこれでお別れなので、やはり感慨深いものがあった。

 その後解散。夜にまたこのセンターでホストも交えてのお別れパーティーがあるので、その準備のために一旦帰宅することになる。今日がパーマストンノースを歩ける最後の日なので、筆者もみんなと連れだってあちこち歩き、土産物など買っていた。一生でたぶん、もう訪れることはないこの小さな街。思い出すものと云えば大学のカフェの巨大レアチーズケーキやプラザ(スーパーの名)のチョコレートシェイク、ゲイルの知り合いの店の手作りハンバーガーなど…ってなんか食べ物ばかりだが、もう口にできないと判っているがゆえにむしろ鮮烈なイメージが浮かぶんであって、別に筆者食い物以外の思い出がないとか云うことはないヨ?(…)

 さて、夜のお別れパーティーは各自夕食持参でやるので、ゲイルもサンドウィッチなど作っていた。ニュージーランドではこういうのをポットラック(あり合わせの食べ物)ディナーと云い、割とよくあることだそうだ。それで夕刻に再び大学へと出立。既に陽は落ちていて、そう云えば夜の大学に来たのは初日以来二度目だと、今更ながらに思う。

 お別れパーティーと云うとしんみりしたものを想像しがちであるが、今宵のパーティは実に陽気なものだった。やはり別れの時こそ楽しくしないと死んだ人間も何時まで経っても成仏できまい(←死んでません)。ソレで心霊写真になってささやかに復讐するのか。関係ないが外国にも和風な心霊写真というのはあるのだろうか。どうも外国の怖い話など聞くと「怪奇! 夜な夜な壁に血痕が浮かぶ恐怖の館!!」や「呪われた廃ホテルのポルターガイスト」、「ひとりでに動く墓石」など、「世界まる見え」でやってた話しだけとってもこんな現実的な、言うなれば「目に見える恐怖」ばっかりで、いまいち後ろの百太郎な趣というものがない。それは映画観ても判るだろう、外国のホラーというと大概目に見える恐怖で、一方和物は精神を内側から侵食するような恐怖が主流。やはり外国人は死んでからもストレートにゴーゴーなのか。少しは日本の心霊写真の奥ゆかしさを見習って欲しいものである。日本の霊ときたらもうなんか恥ずかしがり屋さんが多いのか、背後からこっそり手だけ出すとか顔の半分だけとか、果ては「在るはずの物」を見えなくするとか、そんなんばっかである。なんかもう心霊写真だけで国民性が判るような気がする。アメリカ人の心霊写真は堂々と真っ正面でピースしながらホットドッグ食べてるようななんかもう怖いんだかなんだか判らんようなのブツばかりである(←そこまでは行きません)。でもマジ外国の心霊写真って顔がハッキリ写ってるの、多いよね…。

 パーティーには、みなのホストファミリーはもちろん、お世話になった先生や事務の人、あとなんでか例のアクティビティ担当者のハカセも奥さん持参(←持参なのか)でやってきていた。
 あと用意されたポットラックな食べ物だが、さすがにあり合わせなだけあって実になんでもアリだった。ケーキとかピザとかサンドウィッチはイイとして、誰が持ってきたのか寿司におにぎり、飲み物はもちろんコーラだの。もうなんか既に食い合わせという物を端から考えていない夕食なのだが、ソレはまだマシで、中には見た目からしてなんかもう食欲減退効果があってダイエットにもばっちりですよ奥さんってカンジの妙なブツもあった。冷静に描写するなら茶色い色をした妙にぱさぱさしたパンにべたべたするクリームを挟んだブツなのだが、でも終わる頃にはちゃんと何処ともなく消えてたあたりミステリーである。

 後は歌ったり話したり写真撮ったりと過ごしていると、あっと云う間に夜9時を過ぎ、ホストの子供達の中でも特に小さいのはもう眠る頃なので、一人また一人と家族が減っていく。なんか筆者とゲイルが結局一番最後まで残っていたのだが、ソレでも10時頃には帰ることになった。

 で、その夜はかなり夜更けまで、ゲイルといろいろ話し込んで、お休み。明日はとうとうパーマストンノースを離れる日である。1ヶ月と云う時間の短さと濃さをこれほど強く感じられる機会はもうないかもしれない。ちと真面目な話しだが、「もう二度と会えない」と半ば知っていて別れる機会は、普通に生きている分にはまずない。卒業とか引越で感じる別離感は大したことではない。なにしろ日本なんて狭いのだ。国内ならどこだっていつだって行ける。でも南半球は遠い。だから機会あればぜひ一度海外に旅行でなく日常を体験に行ったり、逆に外国の留学生と交流するなりしてみて欲しい。きっと変わります。


 9月21日(土)。パーマストンノースから飛行機で一路、北の都オークランド(後ほど大停電で話題になったニュージーランド最大の都市)へ。お別れの時などみんな泣いて大変だったが、この辺は文字にしても硝子細工のおもひでが壊れるだけなので割愛させていただこう。

変な火口跡。

 オークランドでは観光もほとんどせず買い物オンリーだった。変な火山の火口跡(左の写真)みたいなとこ行ったくらいで、早々にワイカト班(同スケジュールで同じくニュージーランド北東のハミルトンに留学していた同級生)の連中と合流し、そのままモーテルにチェックインすることになった。何故と云えばッ!!



 「えー、明日(9月22日)は午前4時半にここを出ますので」

 …おい。

 マジである。マジと読んで本気と書く(←逆だろう)。そんななので皆ほとんど寝られなかった。筆者はもとより寝る気無かったのだが、ベッドに寝転がり、ふと気付くとなんか時間が飛んでたんできっとどっかで時空異常でも発生していたのだろう。

 そして、ここのモーテルのテレビで見たニュースで、ハイスクールラグビーの決勝戦の結果が観れた。パーマストンノースボーイズハイスクールvsどっかの高校の試合である。つまりホストブラザー、ブレアの試合。結局ブレアのチームは負けたのだが、結果を知ることができて良かったと思う。そのうちプロになりたいって云ってたし、マジでなれそうなので、ラグビー選手でブレア・キャンベルって名を見たら思い出して欲しい。


 さて1ヶ月もの間ニュージーランドで生活していた割に、カルチャーショックは全くと云っていいほど無かった。いやまあソレは「町中で羊が放し飼いになっている」とか「キウイフルーツが主食」だとか云うレベルを念のために覚悟完了していた筆者もどうかと思うが(…)。あと普段から外国人の講師や留学生となじみ深いので、カルチャーショックに対する耐性ができてるかも。

 で、そんな中筆者がいちばん驚いたのは、単なる歩行者信号であった。これが本当、一瞬にして色が変わるのだ。誇張でもなんでもなく青(グリーン)になった瞬間に歩き出しても4歩目くらいでもう点滅開始。更に数秒で赤信号である。つまり歩行者信号を渡るためには赤の時点でそこに居るしかないのだ。


 そして、明けていよいよニュージーランドを発つ時が来た。もう半分寝ながらだが、のこのこ飛行機に乗り込む。この時点で朝7時で、パスポートチェックとかがあるために上記の朝4時半にモーテル出発と云うアイドル並のスケジュールだったのだ。アイドルと云えば松方弘樹(←アイドルなのか)も世界を釣りながらこんなスケジュールを生きているのか…とか油断していたらまた「ぴぃ」と例の金属チェックがなってくれた。今度は鍵束でなく、財布の中に忍ばせておいた予備の鍵だった。来たときには鳴らなかったのだが…もしかして日本のチェックって甘い?


 さて飛行機。来たときは時差のせいで16時間もかかったが、今度は逆に時差のおかげでなんとわずか10時間で日本に着くのである!! 実時間では当たり前だが行きも帰りも13時間なのだがまあソレはともかく、みな疲れ果ててぼーっとしてる中、筆者はとりあえず、金払ってる以上機内食は全て食わねばならぬと考え、きっちり起きていた。しかし来たときにも思ったが、だいたいなんでこの機内食、朝4時とかの非常識な時間に来るのか。これではニュージーランドの人間はみなそんな時間に食うとるのかとか、いらん不安を感じてしまうのではないか。

 ようやく名古屋空港に着いたのは、もう陽も沈もうかという時分であった。さすがに真冬のニュージーランドから晩夏の日本にいきなり変わってしまったため、心底暑い。もとより夏が苦手で冬が得意で、ブラボー今年は冬が2回もあるよーとか考えてた筆者に直撃する日本の夏はひたすら厳しかった。いやスーツケースに入りきらなかった上着を無理に重ね着しているせいかもしれないが(←まさにソレだろう)、体感温度はもはや熱帯雨林であった。

 そして金沢へ帰る途中に立ち寄ったサービスエリアで、筆者は1ヶ月離れていて禁断症状出かかっていた缶コーヒーを見付け、即座に購入することに。ニュージーランドでは缶に入って売っている飲み物というとコーラかオレンジかなんか紫色の良く判らんものくらいで、コーヒーはなかったのである。なんか外国に缶コーヒーはないみたい。一緒にインスタントコーヒーを飲んだとき、ゲイルに「日本ではコーヒーが缶に入って売ってる」と言ったら笑われたし…ここはヒトツ缶コーヒーを持っていって見せるべきだったか? 物心つく前からコーヒー飲んできた(母上の言うに2、3歳から飲んでたらしい。て云うか飲ませんなよ母上)筆者にとってそんな状況はかなりアレだったので、早速1ヶ月ぶりに缶コーヒーを堪能。

 そんなこんなで大学に着いたのは23時過ぎだった。シティトーキョーとかの不夜城ならいざ知らず、金沢のそれも山奥、最終バスが18時20分な世界である。既に人影どころか妖怪の姿もないこの淋しさの中、結局友人の車でアパートに帰ることに。いや大学に来る途中に各バス停も回ってくれたんだけど、友人の車が大学に置いてあったので、ついでで。

 ともあれ、これで、筆者の一ヶ月の留学は終わりを告げた。しかしもう数日後に後期の授業スタートな上、留学レポートとかの宿題が山ほどある。疲れはしばし取れそうにもなかった…。

 おしまい。


 あと最初に書いたニュージーランド饅頭は案の定売っていなかったため、例の友人にはそこらのスーパーで買った、いかにもメイドイン外国な原色バリバリお子さま用キャンディーの、しかも食いかけで余ったのを送りつけてみた。いやちゃんとした土産も送ったのだが、そのおまけと云うことで。ちなみに筆者が食べたときは実はとても不味かった。

 ホントにおしまい。


ヒトツマエ■−−−−−▽

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